戦国時代末期 佐野・西養寺の長兄、裕知(佐野・西養寺開基 から数え、2代めか3代目といわれる)が元亀元年、織田信長と大坂石山本願寺防戦の際、22歳で寺務相続全て舎弟に譲り参戦。
不借身命の籠城の後、故郷に戻る。
黒河に門徒があり、射水で寺が必要であるということで、故親の寺庵を建立する。(本尊は絵像)
これが、当寺の始まりである。
浄土真宗が徳川家康によって東西に2分されたおり、次の代、裕泉が教如上人に帰属し(東派)、又佐野村の寺号・西養寺を用いる。
慶長19年10月教如上人遷化された折、教如上人の御影を受け奉る。
三世裕夢、寛永20年祖師影を願い奉る。
「越中射水郡倉垣荘黒河郷 西養寺縁起由緒」より
著:三世 祐夢
現在 第十七世住職 伊藤 行人